地政学リスクとは

地政学リスクとは、特定の地域における政治的・軍事的な緊張の高まりが、地理的な位置関係を通じて他の地域や世界経済全体に与える不確実性のことを指します。具体的には、紛争、テロ、政変、大国間の対立、新たな法規制などが原因となり、世界中の企業活動や金融市場に予測不能な影響を及ぼす可能性を意味します。
かつては専門家や一部の国際企業が注視するものでしたが、グローバル化が深化し、サプライチェーンが世界中に張り巡らされた現代において、地政学リスクはすべての企業経営者や個人投資家が理解しておくべき必須の知識となっています。
地政学とは何か
地政学リスクを正しく理解するためには、まず「地政学(Geopolitics)」という学問の基本を押さえる必要があります。地政学とは、地理的な条件が国家の政治、経済、軍事戦略、国際関係にどのような影響を与えるかを分析する学問分野です。
単に地図上の位置関係を見るだけでなく、その土地が持つ資源、地形、気候、人口といった地理的要因が、歴史的にどのように国家の行動やパワーバランスを形作ってきたかを解き明かします。これにより、なぜ特定の地域で紛争が起きやすいのか、なぜ特定の国が海洋進出を目指すのかといった、国際情勢の背景にある根本的な構造を読み解くことができます。
地政学を構成する主な要素は、以下の表のように整理できます。
| 分類 | 主な要素 | 国家の行動への影響例 |
|---|---|---|
| 地理的要因 | 位置、地形、気候、天然資源(石油、天然ガス、鉱物など)、水資源 | 海洋国家か大陸国家かによる戦略の違い、資源確保のための外交政策、温暖化による北極海航路の重要性増大 |
| 政治・軍事的要因 | 国家戦略、外交政策、軍事力、同盟関係、政治体制 | 安全保障のための同盟強化、軍事拠点としての地政学的重要性、シーレーン(海上交通路)の確保 |
| 経済的要因 | 貿易ルート、経済連携、技術覇権、サプライチェーン | チョークポイント(海上交通の要衝)の管理、半導体など戦略物資の生産拠点分散、経済安全保障政策 |
| 社会的・文化的要因 | 人口動態、民族、宗教、歴史的背景、イデオロギー | 民族対立や宗教紛争の発生、歴史認識をめぐる国家間の対立、人口増加や減少が国力に与える影響 |
なぜ地政学リスクが注目されているのか
近年、ビジネスの世界で地政学リスクという言葉が頻繁に使われるようになった背景には、主に3つの大きな構造変化があります。
1. グローバル化の深化と相互依存関係
現代の経済は、原材料の調達から生産、販売に至るまで、サプライチェーンが国境を越えて複雑に絡み合っています。また、金融市場も瞬時に世界中と繋がっています。このため、一地域で発生した紛争や政情不安が、物流の停滞、資源価格の高騰、為替の急変といった形で即座に世界中に波及するようになりました。遠い国の出来事が、自社の事業や個人の資産に直接的な影響を及ぼす時代になったのです。
2. 国際秩序の不安定化とパワーバランスの変化
冷戦終結後、アメリカを中心とした国際秩序が続きましたが、近年は中国をはじめとする新興国の台頭により、世界のパワーバランスは大きく変化し、「多極化」の時代を迎えています。これにより、大国間の競争や対立が激化し、既存の国際ルールが揺らぐ場面が増加しています。米中対立やロシアによるウクライナ侵攻などはその象徴であり、国際社会全体の先行きが不透明になっています。
3. テクノロジーの進化と新たな脅威の出現
テクノロジーの進化は、地政学リスクの様相をより複雑なものにしています。軍事的な衝突だけでなく、国家が関与するサイバー攻撃による重要インフラの破壊、SNSを通じた偽情報(ディスインフォメーション)による世論操作、半導体などの先端技術をめぐる覇権争いなど、目に見えない領域での国家間の競争が新たなリスクとして浮上しています。これらは経済安全保障の観点からも極めて重要視されています。
これらの要因が複合的に絡み合うことで、地政学リスクはかつてないほど予測が難しく、かつ企業経営や経済活動に与える影響が甚大になっているのです。
企業活動に影響する地政学リスクの具体例

地政学リスクは、もはや遠い国の出来事ではありません。グローバルに事業を展開する企業にとって、それは直接的な経営課題となっています。ここでは、近年の代表的な地政学リスクが、具体的にどのように企業活動へ影響を及ぼしているのか、3つの事例を挙げて解説します。
ロシアのウクライナ侵攻とエネルギー価格の高騰
2022年に始まったロシアによるウクライナ侵攻は、世界経済に大きな衝撃を与えました。特に、エネルギーや食料の安定供給がいかに脆弱な基盤の上に成り立っていたかを浮き彫りにしました。ロシアは世界有数の原油・天然ガスの産出国であり、ウクライナは「世界のパンかご」と称されるほどの穀物輸出国です。この二国間の紛争は、世界中の企業のコスト構造を揺るがす事態を招きました。
西側諸国はロシアに対して厳しい経済制裁を科し、ロシアはそれに対抗して天然ガスの供給を絞るなどの措置を取りました。その結果、原油価格や天然ガス価格は歴史的な水準まで高騰し、企業の生産活動や物流に深刻な影響を与えました。
具体的には、以下のような影響が挙げられます。
| 影響分野 | 具体的な影響 | 特に影響を受ける業界 |
|---|---|---|
| エネルギー | 電力・ガス料金の上昇による製造コストの増加、燃料費高騰による輸送コストの増加。 | 製造業全般、運輸・倉庫業、化学、窯業・土石製品 |
| 食料・原材料 | 小麦、トウモロコシなどの穀物価格の高騰。パラジウム、ニッケルといった工業用金属の供給不安と価格上昇。 | 食品製造業、外食産業、自動車産業(排ガス触媒)、電池産業 |
| 物流・サプライチェーン | ロシア上空の飛行制限による航空貨物ルートの変更(輸送時間・コスト増)。黒海経由の海上輸送の停滞。 | 航空貨物、海運業、国際的なサプライチェーンを持つすべての企業 |
米中対立によるサプライチェーンの分断
世界の二大経済大国である米国と中国の対立は、単なる貿易摩擦にとどまらず、先端技術の覇権争いや安全保障問題へと発展しています。この対立は、これまでグローバル化の恩恵を受けてきた自由なサプライチェーンが、国家間の対立によって再編を余儀なくされているという現実を企業に突きつけています。
特に深刻なのが、半導体を中心としたハイテク分野での「デカップリング(分断)」です。米国は安全保障を理由に、中国の特定企業(ファーウェイなど)への半導体関連製品の輸出を厳しく規制。一方、中国も国産化を推し進め、独自の技術標準を確立しようとしています。これにより、企業は米国の技術を使うか、中国の技術を使うかという選択を迫られるケースも出てきています。
このような状況は、企業に以下のような対応を迫っています。
| 対立の論点 | 企業の課題・影響 |
|---|---|
| 関税と貿易制限 | 米中間の輸出入に関わる製品のコストが増加。関税を回避するためのサプライチェーン見直しが必要となる。 |
| 技術デカップリング | 半導体や通信機器などの調達先の変更や、製品設計の見直しを迫られる。米国の規制対象技術と中国市場の板挟みになるリスク。 |
| 生産拠点の見直し | 中国一国に生産を集中させる「チャイナリスク」が顕在化。「チャイナ・プラスワン」として、生産拠点を東南アジアやメキシコなどへ分散させる動きが加速。 |
| 経済安全保障 | 各国政府が重要物資(半導体、医薬品、重要鉱物など)の国内生産や同盟国間での供給網(フレンドショアリング)を強化。これに対応した供給網の再構築が求められる。 |
緊迫する中東情勢と海上輸送路への影響
中東は、世界のエネルギー供給の要であると同時に、アジアとヨーロッパを結ぶ海上輸送の戦略的要衝でもあります。この地域の政情不安は、即座に世界の物流とエネルギー価格に直結します。
近年では、イエメンの親イラン武装組織フーシ派による紅海を航行する商船への攻撃が頻発しています。紅海はスエズ運河につながる重要なルートであり、世界の海上コンテナ輸送の約3割が通過すると言われています。このルートの安全が脅かされたことで、多くの海運会社が紅海ルートを避け、アフリカ南端の喜望峰を迂回するルートへの変更を余儀なくされました。
この迂回は、世界の物流の大動脈である特定の海上輸送路(チョークポイント)が、地域紛争によっていかに脆弱であるかを明確に示しました。企業にとっては、以下のような直接的な影響となって現れています。
- 輸送リードタイムの長期化:アジア・欧州間の航海日数が1〜2週間程度増加。
- 輸送コストの高騰:航行距離の増加による燃料費の上昇や、危険海域を航行するための保険料(戦争保険料)の急騰。
- サプライチェーンの混乱:部品や製品の到着が遅れ、生産計画の変更や在庫の積み増しが必要となる。
また、世界の原油輸送の要衝であるホルムズ海峡も、イランの動向次第では常に封鎖のリスクを抱えています。中東の地政学リスクは、一時的な混乱にとどまらず、企業のグローバルな事業運営の根幹を揺るがしかねない重大な課題なのです。
地政学リスクが企業経営に与える3つの影響

地政学リスクは、国際情勢に関する遠い世界の出来事ではありません。グローバルに事業を展開する企業にとって、それは経営の根幹を揺るがしかねない直接的な脅威となります。ここでは、地政学リスクが企業経営に具体的にどのような影響を与えるのか、特に重要な3つの側面に焦点を当てて解説します。
サプライチェーンの寸断と調達コストの上昇
現代の企業活動は、世界中に張り巡らされた複雑なサプライチェーン(供給網)の上に成り立っています。地政学リスクは、この繊細なバランスで成り立つサプライチェーンを直撃し、企業の生産活動に深刻なダメージを与える可能性があります。
例えば、特定の国や地域で紛争や政治的対立が発生すると、原材料の採掘や部品の生産が停止したり、港湾や空港が閉鎖されて物流が麻痺したりすることがあります。これにより、企業は必要な部材を計画通りに調達できなくなり、生産ラインの停止や納期の遅延といった事態に追い込まれます。
また、供給が不安定になることで、代替調達先の確保が急務となります。しかし、代替先の確保は容易ではなく、多くの企業が同じ動きをすれば需要が急増し、結果として調達コストは大幅に上昇します。エネルギー価格や輸送費の高騰も、コスト増に拍車をかけます。
このように、サプライチェーンの寸断は「モノが手に入らない」という問題だけでなく、「コストが大幅に上がる」という二重の苦しみとなって企業の収益性を圧迫するのです。
| 発生事象 | サプライチェーンへの直接的影響 | 企業経営への影響 |
|---|---|---|
| 紛争・軍事衝突 | 生産拠点・輸送路の破壊、港湾・航路の閉鎖、原材料(エネルギー・穀物等)の供給停止 | 生産停止、原材料価格の高騰、物流コストの増大、製品の供給遅延 |
| 国家間の貿易摩擦・対立 | 特定品目への高関税、輸出入規制、技術移転の制限 | 調達コストの上昇、部品供給の不安定化、製品競争力の低下、代替調達先の探索コスト |
| 資源ナショナリズム | 資源の輸出制限、外資企業への規制強化 | レアメタルなど特定資源の確保難、調達先の変更・多様化の必要性、生産計画の見直し |
為替の変動と海外事業の収益悪化
地政学リスクの高まりは、金融市場、特に為替市場に大きな影響を与えます。市場の先行き不透明感が増すと、投資家はリスクの高い資産を売却し、より安全とされる資産へ資金を移動させる「リスクオフ」の動きを強めます。これにより、為替レートは激しく変動します。
一般的に、「有事のドル買い」と言われるように、地政学リスクが高まると基軸通貨である米ドルや、永世中立国であるスイスのフランなどが買われやすくなります。一方で、紛争当事国や経済基盤の弱い新興国の通貨は急落する傾向にあります。
こうした急激な為替変動は、海外と取引のある企業にとって大きなリスクとなります。
- 輸出企業への影響: 急激な円高が進行した場合、外貨で得た売上を円に換算した際の手取り額が減少してしまいます。製品価格を維持すれば採算が悪化し、値上げをすれば価格競争力を失うというジレンマに陥ります。
- 輸入企業への影響: 急激な円安が進行した場合、海外から輸入する原材料や燃料、製品の仕入れコストが円建てで増加します。このコスト増を製品価格に転嫁できなければ、企業の利益は大幅に圧迫されます。
さらに、海外に生産拠点や販売子会社を持つ企業は、現地の通貨価値が暴落すると、海外子会社の資産価値が減少し、日本本社への配当金やロイヤリティ送金が目減りするといった影響も受けます。為替予約などのヘッジ手段もありますが、予測不能な乱高下に対しては万全とは言えず、企業の財務状況を大きく悪化させる要因となり得ます。
経済制裁による事業機会の損失
国家間の対立が深刻化すると、外交手段の一つとして「経済制裁」が発動されることがあります。これは、特定の国や企業、個人を対象に、貿易や金融取引を制限する措置です。企業にとって、経済制裁は特定の市場からの強制的な撤退を意味し、事業機会そのものを奪う深刻なリスクです。
経済制裁には様々な形態があります。
| 制裁の種類 | 内容 | 企業への影響例 |
|---|---|---|
| 輸出入禁止措置 | 特定の製品や技術の輸出入を禁止する。 | 半導体製造装置などのハイテク製品を輸出できなくなる。特定の原材料を輸入できなくなる。 |
| 金融制裁 | 対象国の銀行を国際的な決済ネットワーク(SWIFTなど)から排除したり、資産を凍結したりする。 | 取引先への支払いや売掛金の回収が不可能になる。現地での資金調達が困難になる。 |
| 取引禁止措置 | 制裁対象となっている特定の企業や個人(SDNリスト掲載者など)とのあらゆる取引を禁止する。 | 既存の取引先との関係を断絶せざるを得なくなる。サプライヤーや販売代理店の変更が必要になる。 |
これらの制裁により、企業は対象国での製品販売やサービス提供、生産活動が不可能になります。これまで築き上げてきた販売網や生産設備といった資産を放棄せざるを得なくなったり、二束三文で売却を迫られたりするケースも少なくありません。
また、直接的な制裁対象国でなくても、国際社会からの批判が高まっている国で事業を継続すること自体が、企業の評判を損なう「レピュテーションリスク」につながります。消費者からの不買運動や、ESG投資を重視する投資家からの資金引き揚げなど、間接的でありながらも事業に大きな打撃を与える可能性があるのです。
企業が地政学リスクに備えてやるべきこと

地政学リスクは、もはや遠い国の出来事ではなく、すべての企業にとって経営の根幹を揺るがしかねない喫緊の課題となっています。予測が困難なリスクに対して、ただ手をこまねいているだけでは、事業の存続すら危うくなります。
ここでは、企業が地政学リスクという不確実性の高い脅威に立ち向かい、レジリエンス(強靭性)を高めるために具体的に取り組むべき3つの重要な対策を解説します。
自社に関連するリスクの情報収集と分析
地政学リスクへの備えは、まず「知る」ことから始まります。漠然とした不安を抱えるのではなく、自社の事業活動と直接的・間接的に関連するリスクを特定し、その影響度と発生確率を評価することが不可欠です。そのためには、多角的な視点からの継続的な情報収集と、客観的な分析が求められます。
情報収集源としては、以下のようなものが挙げられます。
- 官公庁・公的機関:外務省の海外安全情報、経済産業省や財務省が発表する報告書、日本貿易振興機構(JETRO)のレポートなど、信頼性の高い一次情報を活用します。
- 専門機関・シンクタンク:国内外の研究所やシンクタンクが発表する地政学的な分析レポートは、中長的な動向を把握する上で非常に有益です。
- 報道機関:国内外の信頼できるニュースソースから、最新の情勢を日々チェックし、変化の兆候を捉えます。
- 専門家・コンサルティング会社:自社だけでは分析が困難な場合、地政学リスクを専門とするコンサルタントや専門家の知見を活用することも有効な手段です。
収集した情報は、分析して初めて意味を持ちます。以下のようなフレームワークを活用し、リスクを体系的に整理・評価しましょう。
| 分析手法 | 概要 | 地政学リスク分析への応用例 |
|---|---|---|
| PEST分析 | 事業を取り巻く外部環境を「政治(Politics)」「経済(Economy)」「社会(Society)」「技術(Technology)」の4つの側面から分析する手法。 | 進出先の国の政情不安、法規制の変更、貿易摩擦、経済制裁といった「政治」的要因や、為替の急変動、資源価格の高騰などの「経済」的要因が自社に与える影響を洗い出す。 |
| シナリオプランニング | 将来起こりうる複数のシナリオ(最も楽観的なものから最悪の事態まで)を想定し、それぞれのシナリオが発生した場合の対応策を事前に検討する手法。 | 「台湾有事が発生した場合」「特定地域で紛争が激化した場合」など、具体的なシナリオを設定し、サプライチェーンや販売網への影響、従業員の安全確保策などをシミュレーションする。 |
| リスクマッピング | 洗い出したリスクを「発生確率」と「影響度」の2軸でマッピングし、優先的に対策すべきリスクを可視化する手法。 | 「発生確率は低いが影響は甚大(ブラックスワン型)」なリスクと、「発生確率も影響度も高い」リスクを明確にし、対策の優先順位付けを行う。 |
BCP(事業継続計画)の策定と見直し
BCP(Business Continuity Plan)とは、自然災害やテロ、システム障害などの緊急事態が発生した際に、損害を最小限に抑え、中核となる事業を継続・早期復旧させるための計画です。地政学リスクは、このBCPで想定すべき重要な脅威の一つです。「想定外」をなくし、有事の際にも事業を継続・早期復旧させるための具体的な行動計画として、地政学リスクの観点を盛り込んだBCPを策定・運用することが極めて重要になります。
地政学リスクを考慮したBCPには、以下のような視点を加える必要があります。
- サプライチェーン寸断への備え:特定の国や地域からの部品調達が停止した場合を想定し、代替調達先のリストアップ、代替生産拠点の確保、重要部材の戦略的在庫の積み増しなどを計画に盛り込みます。
- 従業員の安全確保:紛争地域や政情不安な国に駐在・出張している従業員の安否確認手順、緊急連絡網、退避計画などを具体的に定めておきます。渡航基準の見直しも重要です。
- サイバーセキュリティの強化:国家が関与する高度なサイバー攻撃や、情勢の緊迫化に伴うサイバーテロのリスクを想定し、情報システムの防御体制やインシデント発生時の対応計画を強化します。
- 財務・資金繰り対策:経済制裁による取引停止や資産凍結、急激な為替変動に備え、複数の金融機関との取引ルート確保や、緊急時に備えた運転資金の確保など、財務面での耐久性を高める計画を立てます。
また、地政学的な状況は刻一刻と変化するため、BCPは一度策定したら終わりではありません。定期的な訓練やレビューを通じて、計画の実効性を検証し、常に最新の状況に合わせて見直していくことが不可欠です。
サプライチェーンの多様化と強靭化
近年の米中対立やロシアによるウクライナ侵攻は、特定の国や地域に依存したサプライチェーンがいかに脆弱であるかを浮き彫りにしました。従来のコスト効率性だけを追求するのではなく、安定供給と事業継続性を最優先に考えたサプライチェーンの再構築が、あらゆる企業にとって急務となっています。サプライチェーンの強靭化(レジリエンス向上)に向けた具体的な施策は以下の通りです。
調達先の多様化(マルチソーシング)
単一の国や一社のサプライヤーに依存する「シングルソース」から脱却し、複数の国・地域、複数の企業から調達できる体制(マルチソーシング)を構築します。これにより、一か所で問題が発生しても、他の調達先からカバーすることが可能になります。「チャイナ・プラス・ワン」のように、中国以外にもう一つの生産・調達拠点を確保する動きや、価値観を共有する国々でサプライチェーンを完結させる「フレンド・ショアリング」といった考え方も重要性を増しています。
生産拠点の分散・国内回帰
調達先だけでなく、自社の生産拠点も地政学リスクの低い地域へ分散させることが有効です。特定の国に生産機能が集中している場合、その国で紛争や政情不安が発生すると、全世界への製品供給が停止するリスクがあります。近年では、経済安全保障の観点から、政府の補助金などを活用して重要物資の生産拠点を国内に戻す「国内回帰」の動きも活発化しています。
在庫管理戦略の見直し
これまで効率化の代名詞とされてきた「ジャストインタイム(JIT)」は、サプライチェーンが円滑に機能することが前提です。地政学リスクが高まる現代においては、この前提が崩れる可能性を考慮しなければなりません。特に、代替が難しい重要部材や製品については、供給途絶のリスクに備え、一定量の戦略的在庫を保有するなどの見直しが求められます。
サプライチェーンの可視化と連携強化
自社が直接取引しているサプライヤー(ティア1)だけでなく、その先のサプライヤー(ティア2、ティア3)まで含めたサプライチェーン全体を把握し、どこに脆弱性(ボトルネック)があるかを可視化することが重要です。ITツールなどを活用してサプライチェーン全体の情報を一元管理し、主要なサプライヤーとは平時から緊密なコミュニケーションを取り、リスク情報を共有できる関係を構築しておくことが、有事の際の迅速な対応につながります。
個人投資家も知っておきたい地政学リスクと資産防衛

地政学リスクは、企業経営だけでなく、私たち個人投資家の資産にも大きな影響を及ぼします。世界情勢の緊迫化は、株価や為替、商品価格の急変を引き起こし、資産価値を大きく揺さぶる要因となり得ます。しかし、リスクを正しく理解し、適切に備えることで、大切な資産を守り、時には新たな投資機会を見出すことも可能です。
この章では、個人投資家が知っておくべき地政学リスクの影響と、具体的な資産防衛術について解説します。
地政学リスクが金融市場に与える影響
地政学リスクが高まると、投資家心理が悪化し、「リスクオフ」と呼ばれる動きが活発になります。投資家はリスクの高い資産を売却し、より安全とされる資産へ資金を移動させる傾向が強まります。これにより、各金融市場では以下のような影響が見られます。
| 市場 | 地政学リスク発生時に見られる主な影響 |
|---|---|
| 株式市場 | 市場全体の株価下落(特に紛争当事国や経済的に関連の深い国の株式市場)。航空、観光、貿易関連などのセクターは売られやすい一方、防衛関連やエネルギー関連、サイバーセキュリティ関連の銘柄が買われることもあります。市場の不確実性が増し、ボラティリティ(価格変動率)が高まる傾向にあります。 |
| 為替市場 | 「有事のドル買い」という言葉に代表されるように、基軸通貨である米ドルに資金が集中し、ドル高が進む傾向があります。また、永世中立国であるスイスの通貨(スイスフラン)や、世界最大の対外純資産国である日本の円も、伝統的に安全通貨と見なされ、買われることがあります。 |
| 債券市場 | 株式などのリスク資産から退避した資金が、安全資産とされる先進国の国債(特に米国債)に向かいます。国債が買われると価格は上昇し、利回りは低下します。 |
| コモディティ(商品)市場 | 紛争や経済制裁によって原油や天然ガスの供給懸念が高まると、エネルギー価格が急騰します。また、「有事の金(ゴールド)」として、通貨の価値が揺らぐ中で実物資産である金が買われ、価格が上昇する傾向があります。紛争地域が主要な生産地である場合、小麦などの穀物価格も高騰することがあります。 |
地政学リスクに備えるための資産防衛術
予測が困難な地政学リスクに対して、個人投資家ができる最善の策は、どのような事態が発生しても大きな損失を避けられるよう、あらかじめポートフォリオを構築しておくことです。ここでは、具体的な資産防衛術を3つ紹介します。
1. 分散投資の徹底
資産防衛の基本中の基本は、投資対象を一つに集中させず、値動きの異なる複数の資産に分散させることです。これにより、特定の国や資産クラスが暴落しても、他の資産がその影響を緩和してくれます。
- 資産クラスの分散:株式だけでなく、債券、不動産(REIT)、コモディティ(金など)といった異なる種類の資産を組み合わせます。
- 地域の分散:日本国内だけでなく、米国、欧州、アジアなど、世界各国の資産に投資します。これにより、特定の国や地域が抱えるカントリーリスクを低減できます。
- 通貨の分散:日本円だけでなく、米ドルやユーロなどの外貨建て資産を保有することで、為替変動リスクに備えます。
2. 安全資産の組み入れ
ポートフォリオの一部に、地政学リスクが高まった際に価値が上昇しやすい、あるいは価値が下がりにくい「安全資産」を組み入れておくことが有効です。
- 金(ゴールド):特定の国や企業が発行するものではない「無国籍通貨」としての側面を持ち、インフレや通貨価値の下落に強いとされています。世界情勢が不安定になると、その価値が見直され、価格が上昇する傾向があります。
- 安全とされる通貨(米ドルなど):世界で最も流通し、信用度が高い米ドルは、リスクオフ局面で資金の逃避先となりやすい通貨です。外貨預金やFX、米国債などで保有する方法があります。
- 先進国の国債:信用リスクが極めて低いとされる日本国債や米国債は、有事の際に買われやすい代表的な安全資産です。
3. ポートフォリオの定期的な見直し(リバランス)
地政学的な状況は刻一刻と変化します。一度ポートフォリオを組んだら終わりではなく、定期的に(年に1回など)資産配分を見直し、当初定めた比率に戻す「リバランス」を行いましょう。これにより、リスクを取りすぎていたり、逆に過度に保守的になったりするのを防ぎ、常に最適な状態でリスクに備えることができます。
【注意点】過度なリスク回避は機会損失にも
地政学リスクを意識することは非常に重要ですが、リスクを恐れるあまり、過度に投資を控えたり、安全資産ばかりに資金を集中させたりすることは、長期的なリターンを得る機会を逃す「機会損失」につながる可能性があります。地政学リスクはあくまで投資における数あるリスク要因の一つです。冷静に情報を収集し、長期的な視点で資産形成に取り組む姿勢が、不確実な時代を乗り越える鍵となります。
まとめ
本記事では、地政学リスクの意味から、企業経営に与える具体的な影響、そして私たちが取るべき対策について解説しました。地政学リスクとは、特定の地域の政治的・軍事的な緊張が世界経済全体に波及するリスクであり、グローバル化が進んだ現代において、その重要性は増すばかりです。
ロシアのウクライナ侵攻や米中対立が示すように、地政学リスクはサプライチェーンの寸断、エネルギーや原材料価格の高騰、為替の急激な変動などを引き起こし、企業の収益を直接的に脅かします。もはや海外と取引のない企業にとっても、決して他人事ではありません。
このような予測困難なリスクに備えるため、企業は自社に関連するリスクを常に情報収集・分析し、実効性のあるBCP(事業継続計画)を策定することが不可欠です。さらに、特定の国や地域に依存しないサプライチェーンの多様化は、有事の際の事業継続性を高める上で極めて重要な対策となります。
地政学リスクを正しく理解し、事前に対策を講じることは、不確実性の高い時代を乗り越え、持続的な成長を遂げるための重要な経営課題です。本記事が、その一助となれば幸いです。




